中上健次の「岬」 投稿日:2008年 9月 7日(日)22時40分19秒 中上健次の「岬」は読み始めてしばらくの間、登場人物の相関図が頭の中で まとまるまで読み進み辛い。とりあえず、ここにまとめてみる。 小説の中で一貫して「彼」と称されるのは主人公である秋幸(24才)のことである。 秋幸の「母」は最初に結婚した相手と3人の子供を儲けている。 「死んだ兄やん」 「芳子」(名古屋に就職し家庭を持っている) 「美恵」(秋幸の働く土方の親方の妻) この3人にとっての父親は小説の中で「父」と称されている。 母に「秋幸」を生ませた男は、小説の中で「あの男」と称されている。 母が秋幸を連れて、一緒に住んでいる男は「義父」と称されており、こちらも 「文昭」(26才)という連れ子を伴っている。 しばしば酒の無心に来る「弦叔父」という登場人物は「父」の弟である。 親方の兄弟は長男が「古市」といい「浜の家」に住んでいる。 親方は次男であり 秋幸の姉「美恵」の夫である。 親方の妹は「光子」といい、親方に使われる土方の「安雄」の妻である。 小説の最初のほうに親方の家から美恵が向かうのは「浜の家」ではなく 母が住む「義父」の家である。展開からこの辺が読み取り辛いが、「浜の家」は 先に行って起きる「事件」の複線として設定されているにすぎないものので、 美恵が向かうのは義父の家である。 「あの男」は秋幸の他にも、別々の女に女児を2人生ませている。 女郎に産ませた子供は新地で「あの男」の妾になっているという。 ------------------------------------------------------------ スメルジャコフな香り 投稿日:2007年10月14日(日)16時59分31秒 ゾシマ長老の死臭は、物語のレベルから見ると、アリョーシャをイリューシャ や第二の物語でキリスト教的社会主義者として重要な役割を演ずる予定であったコ ーリアとめぐり合わせる要であり、グルーシュニカとの出会いを設定させる要でもあ る。死臭騒ぎを経過としていったんゾシマに距離を置いたアリョーシャはグルーシェ ニカとの「一本の葱」のやりとりの過程で深い信仰を取り戻すが、必ずしもゾシマに 対する信頼を全面的に取り戻したわけではない。ゾシマの死臭はアリョーシャから離 れるが「神がなければすべてが許される」スメルジャコフな腐臭は決してアリョーシ ャから消え去ることはない。最終のイリューシャの葬送の場面は確かに感動的で表現 としての距離がぎりぎりのところで劇に転じられたと思わせるところだが、そこにス メルジャコフな腐臭が漂わないというものではない。たしかにロシアはメタンの産出 国であるが歴史を持たない宗教が発するコンプレックスという悪臭と比べればそれは 環境汚染度がより少ないものと言えよう。団塊の世代は少年時代というエステル香の 記憶を持っている。カラマーゾフに感動できる素晴らしさを次世代に残したいものだ たとえば「カラマーゾフの兄弟」 投稿日:2007年10月 1日(月)02時31分28秒 「カラマーゾフの兄弟」は語り手=著者であることが 最初に宣言されているので、「語り」の破綻は少ない。 しかし「物語の破綻」はある。 最大の破綻は「父殺し」の実行犯であるスメルジャコフの自殺である。 「父殺し」を経過しないと誰も父親になれない。 現代の読者はそのことを知っているので、示威的に作者に殺されてしまったスメル ジャコフの自殺を容認できない。 アリョーシャもイワンも、ドミートリーによる父親殺害を予感しながら止めること はできなかった。彼ら自身に内在する父親殺しがそれを抑止させたのである。 「カラマーゾフの兄弟」は18歳のときに農奴に父親を殺されたドスロエフスキ ーの自伝的小説である。 ドストエフスキーは父親の死に対し「罪」を感じた。自己に内在する「父殺し」の 欲求に原罪を感じた。 しかし我々の世代は「父殺し」を経過することなく自分が父親になることがありえ ないことを知っている。それは当然の成長のプロセスである。 それならば、あえて、父親を否定してみせることは意味のないことである。あえて 「神殺し」を否定してみせることは無意味である。 -------------------------------------------------------------------------------- 地下室の手記 投稿日:2007年 8月19日(日)22時08分11秒 私も偶然、ドストエフスキーを読み返してみようと思っていたところで、最近 「地下室の手記」を読んだばかりのところです。 「インターネット」という「地下室」の中で強烈に自意識を主張し続ける現代を予 感しているような作品で、人間は「予定調和」の世界で生き続けることはできず、そ れを拒否して自己を主張する権利を確保することの中に、人間の本質がある。 ドストエフスキーはこの主張を超越して、自己を否定することのなかに信仰による 救いを見出そうとしたようですが、この地下生活者の主張はきわめて魅力的なので この作品以降の展開の中で、ドストエフスキーの試みが成功するのかどうかは疑問だ と思えるほどです。 若い頃、ドストエフスキーを読んで感動したのは、ソーニヤやムイシュキンの「や さしさ」であり、アリョーシャの「生命に対する感受性」であったわけですが、今回 は、この試みの展開を読み取るといった方向で読み進んで行こうと思っています。 「21世紀、ドストエフスキーがやってくる」(集英社)の中に島田雅彦と金原ひ とみの対談があって、島田がドストエフスキーの小説の中に、登場人物でない「わた し」という語り手が出てくる、これはいったいなんだ、と問いかけ、金原ひとみが「 三人称で書いているときに、わたしという軸がでてくることで、小説自体の軸を保て るんじゃないか」といったことを述べています。逆に言えば、「地下室の手記」でも そうなんですが、ドストエフスキーの小説の中で「語り」にブレのある部分というの は、重要な部分なのではないか、そういった点も考慮しながら読み進めて行きたいと 思っています。