「台所の悪魔」 台所には、確かに悪魔が棲みついているのだ 狭い流しの上に積まれた溢れるほどのコップだの皿だのを相手に、おれは悪戦苦闘 している。どだい、妻と娘とのたった三人の所帯なのに、なんだってこんなに洗い物 がたまるのだろう。コップだって頭数の三つだけで足りそうなものなのに、牛乳を飲 んだやつとか、ジュースを飲んだやつとか、その都度自分達で洗わないものだから段 々たまっていって最後には狭い流しが山になってしまう。中性洗剤をかけたスポンジ を手に、無駄なく早くきれいに洗って自分の時間に帰りたいのに、いつまでたっても 洗い物はちっとも減りはしない。この小皿だの茶碗の多いこと。どこの料亭の流しか と思うほどに山のように次々に、洗っても洗っても出てくる容器の群れにおれは本当 にうんざりしてしまう。それから鍋だのフライパンだの油のこってりついたのが控え ており、また箸だのスプーンだの細々としたものが続く。こんな小さな、マッチ箱の ような家なのに。 ローンを返すために妻は事務の仕事をしているのだが、Y市内のうちの近くにあっ たその会社は通勤一時間以上かかる都内に去年引っ越しをした。そのうえ娘が遠くの 私立高校に入ったものだから、朝が早くなり妻に負担が全部かかってきた。おれも通 勤に1時間半を要するため、正直言って夜はテレビでも見ながらのんびりしていたい のだが、いくらなんでも妻が十二時近くまで家事に追いまくられているのを無視する わけにはいかない。 それで、ぼそぼそ言いながら皿洗いだけは手伝うことにした。それが、こんなに大 変な仕事だとは思ってもみなかったわけだ。 皿洗いのノルマが終わるとおれは近所の公園に散歩に出る。梅雨時で昼間は結構雨 が降っているように思えるのに、夜にはやんでこうしてほとんど毎日散歩に出れるの が不思議だ。路地に水たまりができることもほとんどなく、公園がぬかるみになるこ とも一度か二度あったきりだ。他の年にもそうなのだろうか。などと、とりとめのな いことを考えながら、ブランコに腰掛けて一服する。もともとタバコなど吸わなかっ たおれには、家の中で煙をくゆらす権利など与えられていない。皿洗いを始めてこの 公園に来るようになって間もなく、ベンチに腰掛けてタバコをふかす労務者風の男を 見かけた。その、いかにも充実した自由を味わっている様子をうらやましく感じて、 思わずおれもそばのタバコ屋でいちばん軽いタバコと、使い捨てライターを買って、 こっそり真似をしてみた。それ以来皿洗いのあとはここに来て、数本のタバコを吸う ようになったのだ。 ブランコの背後にはユリノキの大樹が何本か植えられてあり、うっそうと茂って公 園の三角形の一辺に深い闇を形作っている。公園全体はただがらんとした空間で、水 銀灯がひとつだけ足元の湿気を含んださら地を、小さな劇場のステージのように照ら している。時々その空間に何者かが踊るのが見えるような気がするが、そんな幻想も ある瞬間ふと浮かんでは消え失せてしまう。あとは何もない周辺の闇が夜の都会の喧 騒を風に乗せて通り過ぎて行くのだ。 (そうだ包丁を研ぐのを忘れていた) 娘は中学を卒業したとき気の合う同級生と関西に旅行に出かけた。彼女は、極めて 可能性が低いと思われたレベルの高い私立を受けて奇跡的に合格してしまった。その 祝いの意味もあって、泊まりがけの旅行を許したのだった。その時にうちのステンレ ス製の包丁が切れくなっているのを思いだしたのだろう。銘の入った高価な包丁をみ やげに買ってきた。ところがこれがすぐに切れなくなった。妻にそれを研ぐように頼 まれたのだが、包丁など生まれて一度も研いだことがない。おれは会社のそばのラー メン屋のおやじにこっそり、和包丁の種類とか研ぎ方について教わり、砥石を分けて もらった。そしてその夜、聞いてきたばかりの受け売りを、妻に講釈しながら、包丁 を研いだ。娘は向こうで、こちらの様子に頓着ないのか下を向いて本を読んでいたよ うだ。包丁はすばらしく切れるようになった。それからおれは包丁の切れ具合を時々 妻に尋ね、切れなくなると研ぐようにしていたのだ。今日も妻に言われていたのを、 皿洗いが終わったときにはすっかり忘れてしまっていた。 公園を出て通りを渡り路地にはいる。何棟かの社宅のあるその辺は街灯も明るく、 舗道の脇の湿っているのがうかがえる。その先をさらに右に曲がって狭い路地にはい ると電柱の薄暗い明かりがまばらで、建て売り仕立ての似たような平屋が並んでいる 。そのいきどまりの奥から二軒目がおれのうちだ。 その夜、おれは包丁を研ぎ、テレビを見たあと、娘の次に風呂に入ると、まだ家事 の終わらぬ妻を尻目に、先に二階に上がって寝た。いったんは睡眠についたと思う。 しばらくして階下のもの音に目を覚ましてしまった。降りると、妻が台所に腰をおろ して、居間の方に目をやり、酒を飲みながら歌っていた。テレビで深夜の歌謡番組を やっていて女の演歌歌手が絶唱している。妻はそれを見ながら歌っているのだが、酔 っているのを見るのは初めてである。彼女は歌が終わると今度は深夜にしては大きな 声でしゃっくりをしながらしゃべりはじめた。 「眠れない、眠れない、ああ、眠れない。おとといも昨日も、ああ、ぜんぜん眠れ ないのよ。酒でも飲めば眠れるかしらと思って……」 そこで妻はにっと笑った。 「裕美のやつがね、学校行くのがいやだと泣いてばかりいて、どうしていいのか困 ってしまう。試験受かったときはあんなに喜んでたのに、入ったら程度が高くてつい ていけなくて、最初の中間試験がさんざんだったものだから……」 そうだったのか、娘はおれの前では能面のように仏頂面してるが妻の前ではずっと 泣いてばかりいたのだ。だから近くの公立に入れといったのに、可能性のほとんどな い高校なんか受験して、受かったときには実際喜んだのだが。それが……妻もどうし ていいかわからず夜も眠れない状態になっていたのだ。そうはいっても明日もお互い 仕事があることだし、とにかく寝ないとな。しかし、いつから酒など飲むようになっ たのか。おれは妻の背後の台所の空間に、夜の公園で幻覚のように現れては消え去る 舞踏家(ダンサー)がたたずむのを一瞬目にした。それは真っ黒な衣装で身を包んで おり、耳が異常に長い「悪魔」の容貌を見せていたように思う。 翌朝おれはバスの中で、わが家に起きた非常事態について考えようとした。なんと かしなくてはならない。だが、一体どうすればいいと言うのだ。娘にはなんとか頑張 ってもらうしかない。妻にも。それ以外にどうしようもないじゃないか。乗り換えた 電車の中ではおれはいつも通り文庫本の小説の続きを読んでいた。満員電車の中でじ っとする苦痛から逃れるためにいつもこうして本を読んだ。見知らぬ架空の世界に入 って行き、ほぼ完全に現実のうっとうしさから遠ざかることができた。目的の駅に着 いたときにはその途端に忘れてしまえる安直な虚構であったが、おれにはなくてはな らない毎朝の必需品だったのだ。通勤があり仕事があり、日常はこのまま続くように 思えた。 しかし、この日、まず会社で営業部の次長に呼び出された。おれの勤める会社は印 刷機械の商社である。もともとは先々代の社長が始めた小規模の印刷屋だったのだが 、今の社長は大学出で印刷機械の営業を主として電子写真製版、電子出版などの周辺 先端技術も取り入れた幅広い営業活動を展開している。おれは農家の次男坊で当初、 高校を出て東京で働きながら通信教育で大学の勉強をしていた。しかし三年目に入っ て仕事で後輩の面倒も見なければならなくなり中断せざるをえなくなった。結局その ことが不満でその会社をやめ、郷里に帰り、今の会社の支店の募集に応募したのだ。 ちょうどその時本社の総務課で人を必要としていた。東京にいたのなら、ということ でおれは本社勤務に抜てきされたのだ。しかし、「中途採用」「支店採用」というレ ッテルは貼られたままだった。それでおれは二十年以上も勤めて最低の役職しか与え られてなかったのだ。 次長の話は転勤の命令だった。埼玉県内の同業他社が取り込み詐欺にあい倒産した。 それでわが社がS市に支店を出して空いた市場を受け入れることにした。ついては、 その支店に一緒に行って新市場開拓の仕事をやろうというのがその趣旨である。 「その間、今わたしがやっている総務課の仕事は誰がやるんでしょうか」 「それは、君の上司が当面やることになる。その上で派遣社員を受け入れてコンピ ューター処理できるようにするつもりのようだ」 「するとわたしはもう支店から帰って来れないんですか」 「いや、そんなことはない。支店が成功すれば、当然会社は君の努力に報いるつも りだ。だから、おれと一緒に頑張ろう。通勤は相当遠くなるようだが、それはおれと て同じだ。まあ、支店は再来月からだ。よく考えて今月中には返事をくれたまえ」 返事も何も、一方的な命令ではないか。第一、ここでのおれの仕事はもうあとの処 理が決まっているのではないか。そんな支店に行って、どんな仕事がおれにあるとい うのだ。だが、がまんする他にどうすることができるだろう。おれさえがまんすれば、 わが家の日常は破綻することなく続くのだ。 しかしこの夜、勤務を終えて帰宅したわが家には、妻も娘もいなかった。妻はたま に残業があって、そんな時には駅前で折り詰め弁当かなんか買ってくることもあった ので、おれはテレビを見ながら待っていた。娘は勉強の遅れを取り戻すために塾に通 う話をしていたので、それを始めたのかもしれない。だがそれは夏休みに入ってから の計画ではなかったか。ともかく九時をまわってもどちらも帰ってこない。おれは待 ちきれなくて近所のコンビニエンス・ストアに行って適当に食べるものを買った。妻 と娘の分も、腹を減らして帰るおそれもあるので適当に見繕った。そうしてうちで買 ってきた惣菜を盛りつけようと皿を並べて包丁を探したが、いつものプラスチック製 の包丁立てにそれが置かれていないのだ。おれはレンジの影や棚などを探し回ったが ついに見つからず、流しの下の引き出しにあった果物ナイフで惣菜を切って皿に盛り つけた。そうして炊飯器に残っていたご飯と準備したおかずを食べ、一杯飲みながら テレビを見ていた。しかし深夜になってもどちらも帰ってこない。あきらめてシャワ ーを浴びて寝ることにした。明日、妻の会社や娘の学校に連絡してみよう。支店への 転勤のことも頭に重くのしかかっていてなかなか寝つけそうにない。つい飲み過ぎて しまう。布団のなかで、酔いにまかせてとにかく眠ろうとするおれの頭の中に最後に 浮かんだのはあの包丁のことだった。あれはいったい、どこに消えたんだろう。 翌朝も、昼休みも、おれはどこにも電話できなかった。妻が帰ってこないと彼女の 会社に電話することや、娘が帰ってこないと学校に電話すること。どちらにしても、 その途端に大騒ぎになってしまうだろう。だが、これはそんな事態なのだろうか。娘 は友人のうちにでも泊まったのかもしれず、妻だってなにか不測の出来事で連絡はで きなかったものの、今日はいつも通り会社で仕事をしているのかもしれない。今日帰 ったら、一昨日までの家庭がそのまま待っているかもしれないではないか。 おれはこの日、定時で会社を出た。そうしてうちで昨日の残り物を食べながら連絡 を待った。テレビはクイズ番組やドラマをやっていた。おれは今日は湯船につかりた いと思った。それで風呂の水を抜き、軽く浴槽の掃除をして、水を入れた。いつも風 呂の掃除は妻がやっていた。風呂掃除と皿洗いとどちらがいいかと考えて、おれは皿 洗いを選んだのだった。風呂掃除は腰を屈めるため皿洗いの方が楽に思えた。しかし 流しは男が立つには低すぎて多少前のめりになるため、最初のうちは結構腰が痛くな った。 この日、風呂掃除の間と入浴の間、コードレスの電話機は風呂の前に置いたままに していた。そのあと、風呂から出ると一杯飲み始めた。深夜になっても電話はついに かかってこない。いよいよ本当に非常事態だ。明日は行動に出なければ。 昼休み、おれは会社のあるビルからかなり離れた公衆電話ボックスで努めて明るい 口調で妻の会社に電話を入れた。経理課の女性の同僚が出て、妻は一昨日の午前中気 分が悪いと早退したと告げた。 「帰えられてないんですか」 「いえ、娘のことでいろいろあったものですから、家内は疲れてまして。また、実 家にでも帰っているんでしょう」 「そうだといいんですけど。実は一昨日、かなりふらふらの状態で、なんでも眠れ なくて睡眠薬を飲み過ぎたと言ってたんですけど、無事に帰られたかどうか心配して たんです」 「そうですか、ご心配をおかけしまして。後で実家に電話して本人からも連絡させ ますので……」 思いつきではあったが妻の実家は遠くなかった。しかし両親は長男夫婦とその子供 三人と同居しており、たとえ帰っても泊まる部屋などあるとは思えなかった。 その後、おれは娘の学校に電話する勇気を失っていた。これは何かの間違いだ。放 っておけば、またあの日常がいつの間にか帰ってくるさ。そう思いながらも不安は波 のように繰り返し襲ってくる。いや、これは「捜索願い」を出さなければならない事 態なのかもしれない。今こそ抜き差しならない状態なのかもしれない。しかしおれは 明日も会社に通わなければならない。ここでつまずいてしまったら、これまでの生活 はなくなってしまうのだ。ちょっとしたことなら修復は可能だが、大げさに騒いで元 も子もなくしてしまったらどうするのだ。ある日突然、女房も子供も消えてしまうな んて、そんなことがことが起きるわけがないじゃないか。 そうしてその日の夜もうちで一人でテレビを見ながら食事をしていたら、電話が鳴 った。 電話は娘からだった。しかし、それはテープレコーダーからの音声だ。 「お父さん、ごめんなさい。あんなに勉強したのに、中間テスト全然成績悪かった。 やはりこの学校、わたしには無理だったみたい。わたしもう、学校には行きません。 でも、心配しないで下さい。わたしは今、ロックの仲間と一緒にいます。アルバイト をしながら、仲間の食事を作ってやったり、マネージャーをやります。わたしを捜さ ないで下さい。捜したりしたら、今度は遠くに行っちゃうからね。あ、おとうさんの 研いだ包丁、よく切れるね」 おれは大声で娘の名前を呼んだ。しかし電話は一方的に切れてしまった。 だから、だから近くの公立を受けろと言ったのに。この夜おれは酒を飲みながら、 どうしようもない無力感に押しひしがれたまま泣きながら寝てしまった。 翌日には郵便受けに妻からの手紙が入っていた。 「あなた、わたしは元気です。疲れたので、少しひとりになってゆっくり考えてみ ます。大げさになるので捜したりしないでください。裕美をよろしく」 走り書きで、ハガキにしなかったのは、間違っても文面を他人に見られたくなかっ たからだろう。おれは大きくため息をついた。その裕美も同じ日から帰ってきてない のだぞ。おれだって、転勤で、遠いS市まで通わなきゃならなくなるんだ。おれはそ の日にはうちにいなかった。翌日が休日でもあったので駅前の居酒屋で遅くまで飲ん だ。 二週間後、おれは支店への正式な辞令を受け取った。と同時に、本社での業務の引 継と休日には支店に行って開業準備と仕事に追われて妻や娘を捜す暇を持てなかった。 開業セレモニーの準備、後片付けなどで遅くなり、支店に泊まり込むこともしばしば あった。それやこれやであわただしく駆け回るうちにあっという間にひと月ふた月た ってしまった。もちろんその間に妻や娘のことは片時として忘れたわけではない。し かし行動に出る余裕がなかった。じっとしていればまたあわただしい明日が来るのだ。 しかし、おれは支店に勤めるようになって、会社の意図をはっきり知った。最初の うちは支店開業の資材や備品運搬の雑多な仕事に小間使いのようにこきつかわれた。 それが一段落すると、倒産した会社から受け入れた若い営業部員達が入ってきたが、 彼らはみんな、それなりの役職を与えられていた。営業上、役がある者とそうでない 者とでは、客先の信頼度が違うという理由らしい。おれは彼らの部下として、得意先 に営業の補助役で作業衣を着てついて回らされるようになった。顧客の中には技術の わかる人間と勘違いして歓待してくれるものもいたが、ちょっと話すとまったく印刷 機械のことなど知らないし、すぐに化けの皮が剥がれて冷たい視線を返される。 やがて「年長者じゃ使いづらい」という営業部員たちのひとことで、完全に干され てしまった。おれは本社に出向いて総務部に帰れるように取り計らってもらおうとし た。しかし久しぶりに見る本社の事務所は完全に様変わりしていた。古い事務系の社 員は姿が見えず、事務所はパーテーションで大きく二分されていた。「OAエリア」 と書かれてあるドアを覗くと中にはパソコンが並び、小綺麗な椅子には見慣れぬ女子 派遣社員たちが座っていた。おれは廊下でやっと常務のひとりをつかまえた。彼はお れの顔もろくに見ないで一方的にしゃべると逃げるように向こうに行ってしまった。 「われわれの業界はこの不況でたいへんに厳しい。倒産する会社が何軒もでている。 なんとかここを切り抜けんといかん。今回派遣社員を受け入れることにしたのは、合 理化をやりたいうちのニーズと、余剰人員を利用するために子会社として派遣会社を 作ったお得意さんの会社のニーズが一致したものだ。いろいろ問題もあるが、会社は この不況をなんとか乗り切ろうと努力している。君にも努力をしてもらわなければ… …」 そうしたある休日、おれは妻が勤めていた会社の近くのマンションの、一室の前に いた。妻を近くのスーパーで見かけたという情報が、彼女のやめた会社の同僚だった 社員から寄せられたのだ。 「NWソフト企画」と書かれたドアのチャイムを鳴らすと中から若い男の声が聞こ えた。おれだということはすぐにわかったらしい。しかし男は最後までドアを開けな かった。部屋の奥から聞こえた妻の声はおれを拒否していた。男はドア越しにしゃべ った。 「あの日、睡眠薬を飲んでふらふらしている奥さんをもうちょっとで車で敷きそう になりましてね。転んだところを抱き起こしてるうちに奥さんが本格的に眠ってしま われたので、ここに連れて来たんです。奥さんは大変疲れていて翌日の昼過ぎまで目 を覚ましませんでした。そうして、その後いろいろ事情をお聞きして、治るまで、奥 さんをここから出してはいけないとぼくは感じたんです。いまでもそう思っています。 いえ、分かっていただけないかもしれませんが、今ではぼくたちはお互いを最も必要 としているんです。そういうわけですから、お引き取り下さい」 なんという勝手な言い草だ。そんなひと言で、妻との二十年間が切り捨てられてた まるものか。親の反対を押し切って結婚し、娘を育て、苦労しながらやっとマイホー ムが持てたんじゃないか。ここまでやってきたおれと妻との間が、そんな簡単な捨て 台詞で吹き飛ばされてなるものか。 しかし、とりあえず今はどうにもならない状況だということは承伏しないわけには いかないらしい。 「裕美も家出してしまってるのを知っているのか」 「娘さんなら、いまテレビに出てますよ。新人ロックコンテストで、二週勝ち抜い ています。ビービーエス・パンクというグループです。ええと、土曜日の深夜です」 「女房に、待っていると伝えてくれ。おれは離婚届に印など押さないからな」 その土曜日、おれは番組の時間が始まるとテレビをつけた。しかし娘の所属するロ ックグループは出演していない。画面の下に字幕が流れ、そのグループは事情により 出演できなくなったと伝えていた。おれはあわててテレビ局に電話した。そのグルー プは内輪もめから殺傷事件を起こしたという。 あわてて警察に電話したおれは、娘がグループ内の意見の違いから起きた喧嘩の間 に入って刺されて死んだのを知った。凶器はあの和包丁だった。 * * * 洗っても洗っても、コップや皿は少しも減らない。たった三人の所帯なのにどうし てこんなにたまってしまうんだろう。早く洗わなければ、楽しみにしていたテレビド ラマの時間が来てしまうではないか。ええと割れやすいコップを先に洗ったら次は小 皿だ。鍋やフライパンはガスコンロの上に一時置いといて後回しにする。意外と手間 を取るのは箸やスプーンのたぐいだ。おれはもう洗剤を使っただろうか。そうだ、皿 洗いはまだ始めたばかりなのだ。スポンジに中性洗剤を染み込ませてぎゅっと握る。 そうだ今日も早めに皿を洗ったらテレビドラマを見るのだ。あのドラマの続きはどう なるのだろうか。そう思いながらふとその「ドラマ」の筋が思い出せない。いったい おれはどんなドラマを楽しみにしてたんだったか。なんだか純愛物のような気もする が、刑事物だったような気もする。ええと、主役は誰だったろう。アパートの廊下か ら窓越しにはなし声が聞こえてくる。 「山本さんのお爺ちゃん、今日も皿洗ってるのね」 「ねー、かわいそうにねえ、ボケてるとはいえ、ああ朝から晩まで皿ばかり洗って るんじゃたいへんねえ」 「昔、マイホームに住んでいて、奥さんや娘さんと暮らしていたときの思い出が忘 れられないのね、きっと」 「そうですってね、おくさんも娘さんも不幸な亡くなり方をしたんですって」 「それから家も手放し、会社もやめて、散々な目に会ったらしいのよ」 「それが今ごろになってボケが出てきて、その頃の生活がそのまま続いていると思 いこんでいるらしいのよ。外食しかしないのにああやって一日中部屋の流しで皿洗い ばかりやってるの」 おれは聞き流しながらせっせと皿を洗っている。まだ新しいフライパンは磨きに磨 きをかけたおかげでピカピカに光っている。鍋の底をふきんで拭いながら、ほとんど 新品そのもののようにきれいであることに満足した。実際に鍋を両手で頭の上に持ち 上げてくるくる回してみたりした。 ふと流しの壁のステンレスに、何かが映ったのをおれの視線は捉えた。それは人の 顔である。それは自分の顔ではない。おれはやや腹が出て血色が良く、白いものが混 じってはいたが髪がふさふさしているはずだ。ところがいま映っているのは顔面しわ だらけの細いあごをした、漬物のようにさえない老いた顔だ。悪魔かもしれない。あ のとき台所で酒を飲む妻の背後にいたあの悪魔の奴が、またここにあらわれてきたの だ。しかし、耳は長くない。頭には薄い白髪がまだらにぽつぽつと残っている程度で、 ほとんど禿上がってしまっている。おれは自分のひざががくがくしてくるのをもはや 止められない。 あ、小便がしたいとおれは思った。トイレはどこにあっただろうか。そのときすで に左足の付け根を這う温かい液体の感触をもうどうしようもない。ひとりっきりの、 台所とも言えない四畳半の片隅の流しの前にしゃがみこんで、おれはいつまでも泣き じゃくるしかなかった。