「眺海荘日記」(5)  日曜日の午後、広瀬川が山崎の部屋を訪れた。山崎は膳の上の原稿用紙の束を前 になにやら書きつけてはくしゃくしゃに丸め、部屋の隅に置いた小さなごみ箱に捨 てている。広瀬川はやや緊張した面もちで、何か重大な決心を固めたものらしい。  「おれは、やはり大学をやめることにしたよ。田舎に帰って店を継ぐんだ」  「評論はどうするんだ」  「夢は捨てた」  「そんなに簡単に捨ててしまえるのか」  「親のためというより、自信を失った。あの松田の自殺のことで、おれはいろい ろ考えたんだ。あいつは死ぬほどの苦しみを持っていて、それだから詩が書けた。 しかしおれに何があるというんだ」  「それならおれだって同じだ」  「おれは勘違いしてたんだ。有名な批評家の評論を読んで、そのすばらしい知性 の裁断力に感動した。それだけでおれは自分にもそんな評論が書けると思い込んだ んだ。だが、おれに書くべき何があるって言うんだ」  「たしかにな。松田は物心ついた頃から自分が普通と違うことに気づき、その時 から地獄の苦しみの中に投げ込まれたんだろう。そういう苦しみはおれの中にもど こを探してもない。だからおれは書けないんだと思う」  「おれたちは甘い夢の中に浮かぶ、くらげみたいなもんだったんだろうか」  山崎は、何も言えなかった。  広瀬川が去った後、山崎は窓からぼんやりと空き地を見おろしていた。するとし ばらくして、近所の八百屋の軽トラックが止まった。そこに一匹の白い子犬が駆け てきて運転席から出てきた若い店員にじゃれている。店員は荷台の箱をいくつか降 ろすと台車に載せて、犬と一緒に路地の向こうに消えて行った。  その後、空き地に大通りの向こうの中華料理屋の若い店主が来てなにやらきょろ きょろしながら八百屋のトラックの方に近づいた。何だあれは、と山崎は一瞬目を 凝らす。店主は一回り周囲を見渡したあと、すかさず荷台に跳び乗ってその底の方 を探り始めた。どうやら八百屋の残して行ったキャベツや白菜の葉っぱのたぐいを 拾おうとしているらしい。 (あんなもんを食わされたんじゃ、堪らないな) 山崎は人の居なくなった空き地をいつまでも眺めていた。空き地の向こうのガー ドの上を電車がいくつも通り過ぎて行った。しかし時に騒々しく耳をつんざいてき た音も、今は彼の耳に入ってこなかった。奇妙にしんとした時間が過ぎて行った。 そこには自分しかいなかった。何もない暗闇に向かっているようだった。それは生 まれて始めて遭遇する暗黒の世界だった。不安はなかった。不思議な充実があった。 この世に、こんなところがあったのだと、はじめて山崎は気づいた。  やがて人声がこの闇を破った。空き地に近所のマンションの若い婦人とまだ四・ 五才くらいのその娘が来て、追っかけっこをしたり会話をしながら笑い声を上げて いる。空き地は一度に明るい夕焼けの中にその相貌をあらわにした。その女性の姿 が洋子のそれと重なった。山崎はしばらくその母子の様子をじっと見ていた。  「ここが観念のしどころか……」  深いため息がひとつ漏れる。  「生活して行って、どうしても捨てきれないものが残ってたら、また書こう」  山崎はそうつぶやきながら、膳の隅の原稿用紙の束をぽいっとごみ箱に投げ込 んだ。