「眺海荘日記」(1) 長い残暑からやっと開放された日曜日の夕方、私鉄沿線の高架に面した空き地は、 一隅に建つ古アパート眺海荘とともに、あまねく夕焼けに包まれていた。そこには、 まばらに数台の乗用車が止められてあったが、区画らしいものもなければ立て看板 もないため、いったい駐車場として運用されているのか、ただの空き地なのか誰に も区別はつかなかった。夜中にクラクションが鳴り続けるためアパートの住人が警 察に電話したら、それが盗難車だったというようなこともあった。ずぼらな空き地 の所有者が遠くの町に引っ越しているため、空き地は囲いすらもない状態のまま置 かれていた。 眺海荘はその優雅な名称からは想像もつかない、三畳一間の部屋が一階と二階に 五つずつという小さなボロアパートあった。規模を考えると信じ難いが、外階段式 のれっきとした「アパート」なのである。兼用の流しが上と下にそれぞれひとつず つあるが、米をとぐ、皿を洗うなど最小限度の自炊に耐えられる程度のものにすぎ ない。トイレは一階の奥に全体の兼用で大小一対の、さすがに水洗式のものが設置 されてあった。元はミッション系女子短期大学の寮として使っていたものを流用し たらしい。いまや相当古く、地震が起きたらどこよりも早く壊れると住人たちが噂 するほどの、危険な感じのするアパートである。 その住人はといえば、アルバイトをしながら食いつないでいる学生たち数名のた ぐいの他、パーマ屋勤めのオバサンや、サラリーマン、水商売系の男が住んでいて、 定かではないが、いくつかは空き部屋である。水商売の男はたまにしか帰ってこな いが、その度に必ず違う女を連れてきて朝まで不思議な物音を立てて学生たちを悩 ませる。ほかに、たまに来て自分の部屋の掃除だけして帰るおばさんもいるが、こ こに寝泊まりしているわけでなく、なんのために部屋を借りているのか窺い知るこ ともできなかった。 二階の真ん中の部屋にいる山崎三郎は、社会学を専攻する昼間部の学生であるが 普段は昼間アルバイトに行き、夜は本を読んだり小説を書いたりしている。いや、 書くというより原稿用紙を膳に広げてプロットや登場人物について、ああでもない こうでもないといろいろ考えながら時間ばかりが過ぎて行き、紙のマス目は一向に 埋まらない。気がつくと少ない財産のひとつである14インチのカラーテレビに目 がいっており、いつも人前で下らないと罵倒しているバラエティー番組にくぎ付け になっていたりする。 学生といっても大学に六年間も籍を置いているが、卒業とか就職をする必要をあ まり感じていないので最近は大学にはほとんど顔を出していなかった。彼は今日も 原稿用紙を前に何かを書き始めようとしてたのだが、筆が進まぬままに本棚から文 芸誌の一冊を取り出して読み始めたところだった。 しかし山崎はすぐに読む手を休めると窓の外に目をやった。空き地でジャージを 着た上野が両手に持った鉄アレーを上下させたり屈伸運動をしている。上野は下の 部屋の四番目に住んでいる。大学二年生で、一番若い癖に態度はでかい。運動部に は所属していないが体の筋肉を鍛えることに異常なほどの関心を持っており朝晩の 運動を欠かさない。日曜日にはいつも、生活のためにというよりも体を鍛えるため に引っ越しのバイトをしているはずなのにめずらしい。山崎も表に出ることにした。 「おや、今日はバイトにあぶれたのかな」 「おお、山崎かおまえはいつも暇そうでいいなあ。バイトは今日はやらん」 呼びすてと物言いにむっとしながらも上野の屈託のない性格に山崎は寛大である。 山崎も平日には洋菓子工場でアルバイトをしている。 「そんなに運動が好きならプロレスか柔道のサークルにでも入ればよかったじゃ ないか」 「ばーか、おれは筋肉を鍛えたいだけなのだ。ひとを投げ飛ばしたいとは思わん」 そこに買い物から帰った広瀬川が文庫本を手にして加わる。このアパートでは一 階のふたつ目の部屋に住む広瀬川は文芸批評家志望なのだが大学での専攻は法社会 学で、やはり六年通っているので、山崎とは趣味も境遇も合い仲がいい。 「なんといっても批評家のYは古いようだがすごいな。本屋で立ち読みしててつ い買ってしまった」 「うーん、批評と言うのは芸術じゃないからな、あっ、また論争になってしまう」 芸術作品を論理で切り捨てようとする広瀬川の態度が山崎には気に食わなくてよ く論争になる。山崎は文学を論理でなくもっと広がりのある観念の構造物だと思っ ている。しかしこの話題はすでに二人の間で出つくしているのである。 「おお、みんな集まってミーティングかい。おれには文学の話はさっぱりわから ん。でも法律とか、まあ商法ならなんとかなる」 「あ、橘さん、うるさかったですか」 学生でない橘がいつも最も勉強をしている。彼は一階の奥の部屋に居る。大学を 出た後しばらくサラリーマンをやってから、今は仕事をせず税理士の受験勉強をし ている。彼は二十七才で髭も濃く一番しっかりした印象を持っており、このアパー トではもめ事のまとめ役である。寝ているのは深夜四・五時間だけだろうと思われ る。それでもたまに気晴らしにこうして対話に加わったりするのである。先輩格の 橘が加わり、今度は法律の話に移る。広瀬川と上野は法学部に在籍しているのでそ ちらの関係は話が進むのである。 こうして空き地の一角はにわか討論会場になる。そこに大通りから右折して路地 を通り抜け、一台の青いライトバンが近づいてきた。 「なんだ、あれは」 「引っ越しかな」 車が止まり、中から若者が二人出てくる。色の白い細身の青年と、運転をしてい た方は健康そうな中肉中背の若者である。二人とも半袖の白いシャツを着ている。 「こちらのアパートの方ですか。二階の手前の部屋に引っ越してきた松田ともう します。よろしくお願いします」 色の白い方があいさつをする。 「あ、みなここのメンバーです。よろしく。どこの学生なの?」 「ええ、渋谷の写真学校に通っています。バイトの関係でこちらに引っ越してき ました。夜、そこの駅前でバーテンをやってるんです」 ちょっと毛並みの変わったのがやって来たなと山崎は思った。二人は並んでひそ ひそ話をしながら階段を上っていく。仲のいい友達同士というところかなと山崎は その後ろ姿を見送った。