「眺海荘日記」(2) 翌日山崎はアルバイトに出た。下り電車で十五分程のM駅を降りて徒歩で六・七 ほど、商店街を抜け畑が見え始めたところにその洋菓子工場はあった。山崎はここ で資材係の補助をしていた。それは配送の車が運んでくる材料の倉庫への入庫チェ ック・整理、工場の製造係から回された伝票に基づいて材料を台車で工場に運搬す る仕事等である。それらはほぼ決められた時間に定期的に実施されたので、空いた 時間には本を読むこともできた。土・日は休みであるにもかかわらずバイト代もま あまあ満足のいくものだったので、大学にはほとんど行かずもう半年近くここに通 っていた。実は四年目でわざと四単位を残して、レポートさえ出せばいつでも卒業 できるような形で二年留年していた。サラリーマンになって型にはめられて無個性 な生活を余儀なくされてしまうのが我慢できなかったのである。 このバイトで山崎を最も悩ませたのは五十キロもある干し葡萄の樽であった。そ れどころか三十キロの缶詰の箱も最初は持ち上げられなかったのであるが、それは すぐに慣れた。干し葡萄の樽はさすがにかつぎ上げるわけにはいかない。樽を傾け て底の丸い枠を転がすようにして運び、台車に載せるわけだが、今度は台車の方が 動いて思うようにいかない。それも最近は自然に要領を飲み込み、当初ほどは手こ ずらなくなった。このバイトのいいところは、菓子類の製造行程でできる切り屑の 類を自由に持ち帰れることで、古い社員やパートの女性たちは順位が先なのだが、 その家族等もいい加減に飽きてきたらしい。残ったのはバイトの学生が遠慮もなく 紙袋に詰めて持って行けるのである。中でも卵をふんだんに使ったバームクーヘン は旨く、切り屑箱の中に残っているのを紙袋一杯に詰めて帰った。 この日もバームの切り屑を詰めた紙袋を持ってM駅前の雑踏を帰路に向かう山崎 は薄いブラウン系統のスーツを着たひとりの女とすれ違った。 (洋子じゃないか) 相手は気づかなかったらしい。去年まで付き合っていた、同じ大学の学生だった 娘で、彼女はひとつ年下だ。山崎がまだ比較的まじめに大学に顔を出していた頃、 銀座の映画館で偶然出会って、学内で顔を見知っていたので、声をかけた。それか ら、大して趣味も合わないのによく会っては話をするようになり、彼女のアパート に泊まるような関係になった。しかし去年就職を前にした彼女に決断を迫られ、就 職とか結婚とか考えもしなかった山崎は二度と彼女に会わないことにしたのだ。洋 子は大手デパートの本社採用に決まったはずだ。その彼女が何で今ごろここにいる んだろう。 この日バイトから帰った山崎は、引っ越してきたばかりの松田に体よく切りそろ えた例のバームを皿にいれて差し入れした。これは新入者に対する親切心であると ともに、どんな人間が来たのか津々たる興味を満足させようとする行動であった。 松田の部屋は山崎の二つ隣で階段を上がった一番手前である。彼は山崎を明るく出 迎え、菓子の礼を言うと、近くに定食屋がないか聞いてきた。バイトのある日は勤 め先で食事ができるので自炊の支度はないという。山崎は食事の買い出しがあった ので一緒に出ることにした。 「松田君は趣味はなんですか」 通りを歩きながら山崎は話しかけた。 「詩を書いています。ワープロで書いてコピーして綴じた奴を渋谷の街頭で売っ たりしています。まだ三冊目ですけどね」 それから松田は、山崎が名前しか知らない西洋の詩人や、その詩について少し語 った。 「ほう、詩を書くのか。すごいなあ。僕は小説を書いているんですよ。まだ出来 上がっていないけど。それに一階の二番目の部屋の広瀬川は批評家志望なんだ」 山崎は詩を書くタイプの人間にコンプレックスを持っていた。すごい奴が来たと 彼は思った。二人が歩いている路地を小犬の散歩をしているセーラー服の少女が駆 けてきた。その少女とすれ違った途端、突然松田がくるりと体を回して少女の後を 追っかけ始めた。 「おっ、おいっ」 山崎は松田の突然の奇行に驚いた。 松田は二十メートルも行くとまたひょこっとこちらを向いて今度は歩きながらこ っちに来る。 「今の女の子の気持ちを、感じたいと思って……」 これはすごい奴が来た。山崎は松田のことがすっかり気に入ってしまった。 この夜、広瀬川の部屋を訪ねた山崎は興奮気味に松田のことを語った。 「本物だよ、あれは……」 しかし、今夜の広瀬川は元気がなかった。郷里の父親が病気になり、母親から切 々とした手紙が寄せられた。広瀬川には幼い弟妹がいた。彼の実家はちょっとした 商店を営んでいたが、母親は長男である彼にすぐにでも帰ってきて店を手伝って欲 しいのだった。 「親父はこの前会ったときには、血色のいい元気な顔で、百まで生きるから遠慮 せずに都会で男をあげてこいと言ってくれたんだ」 重い病名が彼の口を突いて出ないことが、かえって父親の病状の深刻さを窺わせ た。 「いま、Yに関する評論を計画しはじめたところなので、これだけは完成させた かったんだが」 広瀬川は苦渋に満ちた顔を浮かべた。山崎には返す言葉もなかった。