「眺海荘日記」(3) 翌日、バイト先の洋菓子工場の勤務を終えた山崎は急ぎ足でM駅に向かった。昨 日すれ違った女性の姿を確認するためである。しばらく待つと、その女は山崎の前 に立った。 「山崎君、なんでここに」 「いや、バイト先がこの近くで、昨日見かけたものだから、そういうおまえこそ、 なんでこの辺に通ってるんだ」 山崎は洋子を喫茶店に誘った。久しぶりに見る洋子は別人のように大人っぽくな っており、スーツを脱いだ白いブラウスの胸の膨らみが、形のいい洋子の乳房を思 い出させ、彼を慌てさせた。 「本社勤務という話しだったんだけど、入社したら研修と称してお店に勤務させ られ半年近くそのまんまなのよ、ひどいでしょう」 洋子の仕事はサービスカウンターで、煙草や商品券の販売、商品の梱包、果ては 迷子の親の呼出しまで、一日中立ちっぱなしである。これまでグチをこぼす相手が いなかったのか、堰を切ったように彼女の口からは今の境遇に対する不満があふれ 出した。 「一日中立ちっぱなしで、通勤が遠いでしょう。本当に疲れるのよ。今度いよい よ疲れたら、あなたのアパートに泊めてもらおうかしら」 山崎は眺海荘の外観と自分の部屋の散らかし放題の様子を思い浮かべてぎょっと した。 「うん、いいよ。汚いアパートだけど、来なよ。掃除しとくから」 その夜、洋子と別れてアパートに帰りつくや否や彼は部屋の掃除を始めた。 しかし、山崎は自分から積極的に洋子とまたよりを戻そうとは考えなかった。社 会人となった彼女の変化と、彼女を変化させた世界に、自分もどっぷりと飲み込ま れてしまう予感のようなものが彼を思いとどまらせた。だが、グチを聞いてやる友 人としての役目は守ってもいいと思った。M駅の前で会ったときにはまたお茶でも 飲めばいい、それが部屋の掃除を終えて寝つくまでにもんもんとしつつも得た彼の 結論だった。 次の週の日曜日の昼過ぎ、山崎は本屋やスーパーで買い物をして眺海荘の前まで 帰りついた。ふと見ると二階に行く階段に二人の若者が座っている。一人は松田で、 もう片方は引っ越しを手伝って来たあの時の健康そうな若者である。二人は肩を寄 せあって座っており、驚いたことにお互い手を握っていた。相手の方が、自分の描 いた絵を出品する話をしているのが耳に入った。この色黒でスポーティーな感じの 青年が絵を描くとは意外だ。足を止めて戸惑う山崎の視線が二人のそれと合ってし まい、引き返すわけにもいかなくなってしまった。 「やあ、こちらの人は絵を描くのかい。詩人に絵描きまで集まっちまって、すご いなここは」 そうわけのわからないことを言いながら山崎は二人の横を通り過ぎて二階に向か う。二人は照れくさそうにゆっくり手を離す。あわてて離れなかったことが山崎を 少し安心させた。 (兄弟かなあ。それにしては変だし、まああいつは変わっているから、詩人だか ら、常識的に変な判断すると馬鹿にされるかもしれない) そう思って自分の部屋に入る。ドアを開けると靴を脱ぐ狭い土間の向こうは三畳 の小さな空間である。壁の片側を本棚に占領されて残るは膳とごみ箱と、みかん箱 の上にテレビがやっと置けるだけの広さだ。 (そうだ、布団カバーを洗濯に出しておかねば) 三日後の夕方、山崎はM駅前で洋子と再び出会った。喫茶店に入ると彼女はまた もや現在の境遇にグチをこぼし始めた。どうやらそうした不平不満は彼女の中で、 消化しきれないで発酵し続ける肉類の筋のように存在を主張し続けているようであ った。しかしひと通りこの前と同じグチを並べた後には、彼女はふと学生時代のよ うな穏やかで幼さの残る顔になった。 「ねえ、お酒飲もうか。私、明日お休みなのよ」 そうして二人はパブに入った。洋子は飲みながら学生時代の話をした。大学の講 義というものにまったく興味のない山崎にとって、それは決して興の乗る話ではな かったが、彼女の明るい表情はうれしかった。以前つき合っている間にも、二人は 趣味や話題が一致するわけでもなく一方が語っているときには他方がもっぱら聞き 手で、それでも何となくうまく行っていたのだ。 眺海荘に着いたとき、夜風に当たりながら歩いて来たとはいえ、二人はまだかな り酔っていた。小さい部屋に座る寒々しさを嫌い山崎はすぐに膳を畳んで布団を敷 いた。彼は自分の夏物のパジャマを出すと洋子に着替えさせ、自分はシャツとパン ツのまま毛布の中の洋子を抱いた。 「久しぶりだな」 「もう離れられないよ、私たち」 その言葉は山崎をおびえさせた。そうだろうか。そういうことになるのだろうか。 しかし洋子は、なに気なくつぶやいただけなのかその目は山崎をとらえてなかった。 彼はほっとした。 その時窓の外から咳払いと口笛が同時に聞こえてきた。山崎はカーテンを少し開 いて表を覗いた。広瀬川と上野がアパートの外からこちらを見上げながらニヤニヤ している。 「こら、子供たち、おとなしく寝てろ」 山崎は部屋の中から怒鳴った。洋子は毛布の中にじっとうずくまっている。二人 はしばらくはテレビを見るしかなくなった。 深夜、洋子はトイレに立った。 「変な人ね」 帰ってきて彼女は首をかしげながら言う。どうやら階段の下で、バイトから帰っ て来た松田と出合ったらしい。 「どちらが変なんだよ。男物のパジャマを着て髪の乱れた女とすれ違って、変だ と言いたいのは向こうのほうじゃないのか」 「でも、その変な私を見る目つきが、無表情なんですもの」