「眺海荘日記」(4)  その数日後の日曜日、眺海荘は始まって以来の大騒動を迎えた。山崎はその朝何 度かアパートの階段を降りたり昇ったりしたがその度に昇り口の松田の部屋から岩 が転がるような大きないびきの音が聞こえてくるのを不思議に思っていた。最初は よく寝てるなあ程度にしか感じなかったが昼近くになってもその音が止まない。昼 飯の支度に流しの前に立ち、ふとごみ箱を覗いて睡眠薬の空箱が出てきたので、あ わてて松田の部屋のドアの取っ手を持つとドアはふわっと開いて鍵がかかっていな い。中にはいると不自然な深い呼吸の大いびきをかいている松田の枕元に「遺書」 と書かれた紙がある。  山崎は急いで橘にこれを知らせ、橘が救急車を呼んで乗り込み病院に行った。や はりこういう時には年長者で社会人経験者である橘は頼りになる。残った山崎は遺 書とともにあった封筒のあて先から名古屋の父親に連絡をとった。取り次ぎに出た 男の「マスター」と呼ぶ声から、松田の父親は水商売をやっていると窺えた。  「またやりましたか。三度目なんですよ。あの子はよくよく……これからすぐ出 てそちらに行きますので。ご迷惑をおかけします」  山崎は病院の場所と連絡先を説明した。電話を置いてから彼はごみ箱を確認した。 ちょうど致死量と記されているだけの数の薬の空箱が見つかった。それは、この数 では死ねないぎりぎりの量と読めた。松田は死にたいのではなく生きたいのだ。し かしどうしても生きて行けない苦しみを背負っている。それが致死量ぎりぎりの空 箱に表わされていると山崎は思った。  山崎は例の絵描きの友人にも連絡してやらねばと思った。しかし封筒は父親あて のものだけで、そのために他人の持ち物をひっくり返すのはためらわれた。  数日後、山崎はM駅前で会った洋子に松田のことを話した。松田は二日後退院し て父親と郷里に帰っている。  「あの人、本当のホモじゃないかしら」  山崎の説明をひと通り聞いた洋子は、話の内容と、この前の夜すれ違った時の印 象を合わせてこう結論した。山崎は、それが今となっては打ち消そうにも打ち消せ ない結論のような気がした。というのが、あの自殺の夜にも広瀬川が部屋を訪ねて きて「どうも松田の、あの筋肉マン上野を見る目がおかしかったことがある。あい つはホモだったんじゃないか」と冗談半分に言っていたのを思いだしたからだ。そ れに、松田はとうとう姿を見せなかったが、最後に挨拶に来た父親が頭を下げて立 ち去るまでの表情が、なんかうす笑いを秘めており、照れ隠しというか、演技でわ ざと失敗をしたピエロが見せるような仕草を感じさせた。父親は息子のことをみん なが知ったものと思い込んだのかも知れない。  一番辛いのは松田の父親なのだろう。その原因が生まれつきのものであるにせよ、 生後の環境のせいであるにせよ、息子の数度に渡る自殺の責めを父親として内心に 負わないわけにはいかないであろう。  山崎と洋子との間に沈黙が続いた。山崎は松田のことを考えている。洋子は洋子 でまた別のことを考えているのだ。しばらくして洋子は口を開いた。  「わたし、妊娠したかもしれない」  「えっ、だってまだ一週間くらいしか経ってないじゃないか」  「違うのよ。前にあなたとあっていたときには安全日にしか許してなかったでし ょ。今回はそうじゃなかったのよ。すぐに結論が出るわ。酔っていたし、大丈夫と は思ったんだけど、心配になってきたのよ」  山崎は仰天した。  「人生の、落とし穴だ」  「妊娠していても、責任を取ってくれとは言わないわ。ただ、わたし、あなたと 別れてからとても寂しかったの……」  洋子は泣きだした。思ってもいない展開に、山崎はおおいにうろたえ、動揺を隠 すことができなかった。洋子は暗に一緒になりたいと言い出し、具体的な計画まで 山崎に示した。  「残してるの4単位だけで、その気になれば今年で卒業できるんでしょう。卒業 して、就職してほしいの。暮れのボーナスが出たら賃貸マンションに引っ越すから、 一緒に住もうよ」  最後にそう言い残すと彼女は先に喫茶店を出て行った。